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2011/08/09

宮城ツーリング。大川小学校に再び。

6月の第2弾支援プロジェクトの帰路に立ち寄った宮城県石巻市の大川小学校に再度訪問しました。
第2弾PJレポート
http://shibuya-family.blogspot.com/2011/06/blog-post_14.html
収支報告
http://shibuya-family.blogspot.com/2011/06/blog-post_15.html

宮城県石巻市立大川小学校
全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明(現在5名の児童)となった。

前回行った時はお線香を買い忘れ、献花のみだったことが自分の中でどうしても気にかかっていた。

第3弾プロジェクトが終わりパルさんと翌週の1泊ツーリングの相談をしていた時、『どうしても大川小学校でお線香をあげてこなかったことがひっかかってるから、今回は俺一人でサーッと行って来ますよ』と話しをするとパルさんが『じゃあ、一緒に行きましょう』と。

盟友パルさんのうれしい申し出を受け2人で石巻へ。

出発前、蓮田SAにて

東北道は快調に流れバイクという事もあり昼頃には石巻へ到着。
市内の大型ショッピングセンターでお供えの花と線香を買い大川小へ向かった。

約2ヵ月ぶりの訪問だが前回より瓦礫の撤去や道路の整備が進んでいる印象だった。
津波で落ちた橋の掛け直し工事も始まっていた。

大川小には日々訪れる人がたくさんいるようで、この日も数名の方がいらしてました。

到着後すぐにお花とお線香を供える準備をしながら慰霊碑に目を向けるとそこにはお手紙が。
前回訪れた時はお花がたくさんあり読めなかった手紙だ。

6月12日撮影


前回、石巻から帰った数日後にたまたまテレビを観ていたらこの手紙を書いたママさんの事が。
6月時点では亡くなった74名の児童のうちまだ6名の児童が見つかっておらず、そのうちの一人『鈴木 巴那ちゃん』のママが巴那ちゃんに宛てた手紙だったことが分かった。

パルさんにこの手紙を見ながら『前回ここに来て数日後テレビを観てたらこの手紙のことが取材されていて、巴那ちゃんのママが出てましたよ』と説明すると、近くにいた女性が『私が巴那の母親です』と。

パルさんも自分もまさかこの手紙を書いたママ本人と会うとは予想もしてなかったので本当に驚いてしまった。
巴那ちゃんママには亡くなった児童たちのためにわざわざありがとうございますと深々とお辞儀をされた。

こんな時はママになんて話しかければいいのだろう?
いい歳をした男二人が彼女と交わす言葉に詰まったのは言うまでもない。

その後我々は交わす言葉も少なく黙々とお線香に火をつけ慰霊碑に向かい手を合わせた。
でも今日ここで巴那ちゃんのママに会ったのはただの偶然ではないですよね、と二人の認識は一致するのだった。

しばしの間慰霊碑と徐々に瓦礫の山が綺麗になって行く校庭を眺めたあと、
それではこれで失礼しますと我々はバイクに向かい帰り支度を始めた。

停めたバイク付近からの撮影



帰りの準備をしていると心の声が俺にこう言った。
『お前このままママに何も言わずに帰るのか?それで良いのか?』と。

少しの間、心の中で問答をしていたら無意識にママのいる慰霊碑に足が向かった。

ママに向かい
『あの、自分は本当にありきたりの言葉しか言えないんですけど、どうか頑張って下さい』
この言葉を言うのが精いっぱいだった。
彼女の眼をまともに直視出来なかったからだ。

言葉を発したあとママの眼に涙が浮かんできたように見えた。

その後は視線を逸らしながら自分にも小学1年生と年少の娘がいること、決して他人ごとには思えないこと、思いつくまま話しをしていた。

話しをしていると巴那ちゃんには小6のお兄ちゃんがいて震災後しばらくしてから北上川の上流の方で発見されたそう。
ママは2人のお子さんを一度に亡くしてしまっていた。

毎日ここに通い巴那ちゃんを探していると話しを聞いた。

ママの話しでは色んな場所を探してみたけど『巴那』は小学校の近くにいる気がするとも話しをしていた。

パルさんと自分は『必ず見つかりますよ、絶対に見つかる。
ママが毎日ここに来ているのだから絶対に。』
こうママに言ったのだった。

我々は巴那ちゃんが一日も早くママの元に帰れることを心から祈り大川小学校を後にした。


巴那ちゃんへの手紙
http://sankei.jp.msn.com/affairs/photos/110617/dst11061723420043-p1.htm

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